地震が日本の歴史を創造

地震が起ったために、その後の歴史が変わったといわれる地震や津波がある。
人知の及ばない自然現象は「天の采配」として、時の権力者や権力を狙うグループに襲いかかる。
我々は歴史の結果を知って批判をしているが、当事者は必死にもがいているだけである。

地震や津波の被害に対する応急処置の良し悪しによって、時の権力者の良し悪しの評価となり、時の天皇や将軍を支持していくかどうかの判断をした。
つまり税金や食糧の出納を行っていくかどうかの判断を責められたのである。
平安時代には天皇の詔で対処した。
鎌倉時代には宮将軍が地震を理由に京都へ追い払われた事例もある。
もっとも、鎌倉の執権北条氏と朝廷との争いの結果ではあるが、飾り将軍が意思を持つと排除された。

源平合戦(1180年〜1185年)にも地震が絡む。1185年(元暦2年3月24日)の「壇ノ浦の戦い」後、7月9日に起きた「文治地震」は琵琶湖西岸断層帯の南部堅田断層から大地震が発生した。京都は壊滅的被害を受けた。しかし、地震の被害は全国にまたがり南海トラフの巨大地震であったと推定される。平家の元所領であったが頼朝の所領になっていた西国や日本海側も被害甚大、そのため世間では「平清盛が龍になって地震を起こした」と噂され、「龍王勤(りゅうおうきん)」とも呼ばれている。源頼朝にとっては地震が追い風となり「武士の時代を開く鍵」となった。

1185年(文治元年12月21日)には「文治勅許」で頼朝に守護・地頭の設置を許し地震の復興を行わせた。元所領の地震災害に貢献できなかった西日本の平氏は出る幕がほとんどなくなった。しかし、頼朝は源義経を追討し、ついでに奥州の藤原氏を壊滅させた。

もともと頼朝が関東の戦いで勝ちえたのも関東の武士達の朝廷に対する不満が潜在していたからである。
878年(元慶3年9月29日)には相模・武蔵で伊勢原断層による地震が起き、相模国が大きな被害を受けた。
関東諸国の建物で無傷なものがなく、圧死者が数知れずといわれている。

朝廷では嵯峨天皇の「不徳の詔」を出したが、それで地震の被害者が救われたわけではない。
9年前の869年(貞観11年5月26日夜)に古代最大の地震である「貞観地震」も経験していた坂東以北の武者たちは源義家と奥州で戦った武者達の子孫でもある。
劣勢の頼朝に味方して朝廷の一旦であった伊勢平氏と対立していった。もともと、坂東八平氏から離れていった分家が伊勢平氏であり、平清盛はその子孫である。

伊勢原地震の頃の朝廷側では菅原道真が「地震の成り立ち」の試験問題を答えて官位に採用された。地震が頻繁に起こっていたから試験問題になったのであるが、回答は唐の漢文による知識であった。
道真が藤原氏の他氏排除による失脚後、関東では平将門の乱が起った。
同族の領地争いが原因であったが、藤原氏の他氏排除の政策の延長に起こった反乱であった。

源氏でも源高明が「安和の変」で失脚し、朝廷は藤原一色の摂関政治になった。
奥州では「前五年・後三年の役」が起り、源氏の戦いに関東の武者達も戦いに巻き込まれていく。

伊勢平氏から出た平忠盛が荘園を寄付して昇殿を許され、京都では平氏の分家が源氏と争い、政権の座についた。
関東では平将門を成敗した武家の子孫同士が、敵味方に分かれての混乱は「平将門の怨霊」が災いして頼朝の縁者を排除して、鎌倉幕府として日本を統治していく。

1290年(正応6年4月12日)の「永仁鎌倉地震」の後で「平禅門の乱」が起った。
執権北条貞時が地震の災害の大きさ恐怖となり内官領の平頼綱に権力が争奪されるとの妄想にとらわれたヒステリー粛清劇であった。
鎌倉の平氏が滅亡していく内紛でもあった。40年後に源氏による室町幕府ができるのも永仁鎌倉地震の結果であろう。

1498年(明応7年8月25日)の「明応東海地震」の後には二人の足利将軍(義植と義澄)の対立に発展していく。
津波によって鎌倉の高徳院の大仏の台座が流された。大きな津波地震は当然、大きな災害であった。
西伊豆や沼津などでは10メートル〜30メートルの大津波が押しよせ、被害甚大であった。
そんな状況下で室町幕府の政所執事の伊勢守時が今川氏の縁者として将軍足利義澄の「義兄堀越公方茶々丸討伐の命」を受けて伊豆入りした。

地震によって浜名湖が淡水湖から海岸線がえぐられ淡水湖から汽水湖になったため将軍足利義植方の西方からの兵は攻めてくることはなかった。
盛時は足利茶々丸を敗死させ、「四公六民」の善政を布いた。早雲は韮山城を居城としていたが、小田原城を攻め「下剋上の先駆け」となった。  
伊勢盛時は伊勢新九郎とも北条早雲ともいわれている。
鎌倉幕府の北条の家の子孫とも縁を結び、関東に覇権を及ぼしていった。

早雲の孫の北条氏康が後北条として関八州を平定するが、戦国時代には徳川家康が江戸城に入城して、後北条の関八州をそっくり手中に納め、徳川幕府の拠点となった。
現在、江戸城は明治維新により皇居になったが明応地震の結果ともいえる。

時の流れを一挙に過去から現在へシフトさせると、首都直下型地震が4年以内に起こる確率は70パーセントと発表されている。
また、南海トラフト巨大地震が今年中に起こると予言する人もいる。予知研究を行っている村井俊治元教授は伊豆半島付近より南の太平洋が怪しいと明言している。
電子基準点を16基設置することを予定した。

しかし、科学的予想をあざ笑うがごとく、大阪北部で断層地震が発生した。
それに加えてゲリラ豪雨が西日本各地を襲った。川が逆流する災害も発生した。
東から西に向かう台風も起こった。
突然、首都圏ゲリラ豪雨も発生し、経験のない都民もその恐怖を味わった。

現代では首相が集中豪雨地を視察し、国の災害費用の供出で国の安全が保たれている。
ボランテアの活動で国民がその状況を確認し、どう評価するのかによって政権の良し悪しの基準にも影響し、審判が下る。
次の大地震によって歴史はどう変遷していくのだろう。
2018年(平成30年9月6日)に北海道で強度7の大型地震が発生した。全道で電力の供給が停止に追い込まれた。

当然、インフラもバタバタになり、携帯も電源の補給ができなくなり、旅行客が親や知人に無事を連絡できず困惑している。
NTT東日本では公衆電話を無料にして旅行客などに提供した。
賢明な判断であった。

関係者への状況連絡は精神的な安心につながる。
高度情報化の社会の日本の未来に不安が拡大していく。

日本中、どこにいても地震災害にぶち当たる。対岸の火事ではすまされない。
それらの災害は「想定内の災害」とみるべきである。
現在の住居の場所に地震災害が起こる可能性が常にあることを認識し、BCMの考え方や手法を取り入れて①事前に予防策や代替策を講じる。②発生後の被害を極力押させる手立てを事前に講じておくかどうかで生死を分けるほど重要であると考えなければならない。

NHK総合テレビのクイズバラエティ番組のチコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねよ!」と叱られそうだ。

担当:和田

特定非営利活動法人日本BCM協会